僕がインタビューした日比谷線で通っているサラリーマンは自嘲的に笑いながら、「誰かがわざわざサリンを撒くまでもなく、この電車で死人が出ないこと自体が不思議なくらいですよ」と語った。それくらい激しく混んでいるのだ――まさに殺人的に。ある場合には、息をすることもできない。戸口近くでのラッシュアワーの押し合いで、腕の骨を折った人もいる。ひとりの女性は通勤電車でよく立ったまま眠るのだと語った。乗り込んでから降りるまで、ほとんど身動きしないでいいから。「それはまるで戦争なんです」と一人のサラリーマンは述懐した。「そして、それを我々は毎朝毎晩、週に五日、定年を迎えるまで三十年以上も続けなくちゃならないんです」
「苦しくありませんか?」と僕は尋ねた。
彼は顔をわずかに歪めた。苦しくないわけはないだろう、とその顔は語っていた。でも彼はそれをあえて口には出さなかった。それを口に出すと、自分の中でおそらく何かが崩れてしまうからだ。そのかわり彼はこう言う、「いいですか。みんながそれをやっているんです。僕だけがやっているわけじゃない」。
それが僕らの国だ。
— 村上春樹 雑文集/村上春樹 (via 010734)